Pebble Awake
「ごらん、お嬢ちゃん。あれがエーデルシュタインだよ」
御者台のおじさんが親切に声を掛けてくれました。私は、乗合馬車の幌のすき間から顔を突き出します。
ちょうど大きな岩山のふもとを回り込むようにして、街道は続いています。その先に姿を見せたのは、白亜の城と、それを囲む城下町でした。
ちょうど城のあたりをてっぺんとして、街は丘の上に築かれているようでした。
「ここからの眺めが一番いいんだよ。近づいちまうと、かえって城壁やら他の建物やらに邪魔されるからな」
おじさんはにこにこと教えてくれます。──神様。
どこの神様だか……はわかってるんだっけ、これから行くところですし。……なんの神様か、はいまいちまだよくわかってない神様ですけど、信者でもない私をここまでお導きくださり、ありがとうございます。
私はケープの隠しに忍ばせた金属製のお守り、父さんの店の物知りな冒険者さんが教えてくれた、ヴェクリュージェ様の聖印を服の上からそっと押さえ、感謝したのでした。
乗合馬車から降ろされたのは、まだ街の門まで距離がある粗末な街並みの外れでした。藁地区と言うところなんだそうです。この街は良質な宝石の産地であり、このところ景気もよく、人がたくさん集まってきて街区の整理がおぼつかないということで。
「あ、でも……あ」
粗末と言っても皆さん小ぎれいな恰好をされてますし、お土産物やさんと思しきお店まで並んでいます。といっても、地面に敷物を広げてそこにいろいろ並べているようなものですけど。通り過ぎながら眺めていると、その中の一つに目が止まりました。
「……これ、聖印ですか?」
ターバンを巻いた、いかにもな風体のお兄さんが出しているお店です。
「そうだよ。一個五百ガメルね」
「…………」
ぼったくりです。
「これはここの神様のありがたーい聖印なんだよ。ちゃんと神殿で祈祷も受けてるからね。
男なら金回りがよく、女なら今より美人になれること請け合いさ」
いえ、買おうと思ったのではなく──懐のものと同じモチーフでしたから、嬉しくなって聞いただけだったのですが。
「えーと、ごめんなさい、聖印なら間に合ってます」
「ちぇっ、プリーストかよ」
……そういうわけでもないんですけどね。
門をくぐって、私はまっすぐにお城の方を目指します。乗合馬車のおじさんに聞いた、ヴェクリュージェ神殿はそちらにあるとのお話でしたので。
さすがに街の中に入っていくと、外側との差は歴然でした。白っぽい石が敷き詰められ、建物の壁も磨き上げられています。街区の名前も金とか銀とかのきらきらしたものですし。
お城とヴェクリュージェ神殿は白金地区にあります。ゆるく上り坂になっているせいで、見た目より距離があったように感じられました。
拝観者名簿にペンを走らせ、受付のお姉さんに尋ねてみました。
「あの……、これって、こちらの聖印なんですよね?」
例のお守りを取り出します。
「ええ、二重の六角形、ヴェクリュージェ様の聖印ですね」
「やっぱり……そうでしたか。
これの元の持ち主って、わかりますか?」
「……と言いますと?」
そこで私は、はるばるダーレスブルグからこの街の神殿を訪れた理由を打ち明けます。
実の両親の顔を知らないこと。保護されたときにはこの聖印だけを持っていたこと。
「そうでしたか……ちょっと、上の者を呼んで来ますね。お待ち下さい」
やって来たのは、お兄さんがおじさんになるぐらいの年頃の高司祭様でした。
「ヤスミンと申します。遠くからたいへんでしたね」
「いえいえ。リーリアと申します。お忙しいところすみません」
私はさっき受付のお姉さんに話したことをもう一度繰り返しました。今度はちょっと詳しめに。
「レーゼルドーンですか。それはまた、ヴェクリュージェ様のご威光も広がったものですなあ」
「やっぱり、神官の方の持ち物だったのでしょうか?」
「……申し訳ありませんが、これは信徒の方にもお志をいただいて差し上げているもので。その聖印がどういった方の持ち物だったかは、こちらではわからないのですよ」
「そうですか……」
何の変哲もない、金属製の聖印ですしね。
──ちなみにあとでこっそり覗きに行ったら、お志は百ガメルでした。やっぱりぼったくってた。
「わざわざこのようなところまでお越しいただいたのに、申し訳ない」
「いえ、最初からあまり期待してませんでしたし、こちらこそお時間取らせてしまって」
「とんでもありません。……ところで、この後は……すぐにお帰りになるのですか?」
「えーと……いえ。せっかくですから、見聞を広めて帰ろうかなと思っています」
ヤスミン様はにっこりと微笑まれました。
「では、これも何かの縁とお思いになって、しばらく当神殿に逗留なさってはいかがでしょうか」
……ヤスミン様は多分、客分として宿舎の一間を貸してくれたんだと思うのですが。
父の店の手伝いをし、その合間に常連の冒険者さんたちから剣の手ほどきを受けていた私にとって、今一番やりたいことは、一つでした。
旅の間に鈍った体を鍛え直すこと。
「随分手際がいいのね」
逗留を始めて数日、既に神殿の台所の一角は私の舞台です。ニンジンを繊切りしていた私に声を掛けてきてくれたのは、最初の日受付にいたお姉さんです。ローザさんとおっしゃるそうで。
「ありがとうございます。仕込みは慣れてますから」
「そういえば、リーリアさんは冒険者の宿の出身だったっけ。
この街にもいくつかあるけど、たいへんじゃない?」
「そうですね……それが普通のことだと思ってしまえばなんてことないですよ。むしろ休んでいるとなんだか不安が」
「そういうものなんだ?」
「そういうものです」
なるほど、と納得したようにローザさんはイモの泥落としをしていました。
「はかどってる?」
そこにひょいと顔を出したのは、髪を後ろで一つにまとめ、比較的お値段の張りそうなローブを身につけられた女性です。
「最高司祭様っ」
ローザさんが慌てて手を止めてお辞儀をしました。私もそれに倣います。
この女性がこちらの神殿で一番偉い、最高司祭様でした。とは言え、この数日でお見かけしたのは遠くからだけだったんですが。
「そっちのお嬢さんが新入りさん? なかなかがんばってる有望株って聞いたけど」
「あ、もったいないです……お初にお目に掛かります。リーリアと申します」
というか自分で台所を占領しておいてなんですけど、私のポジは神官見習いでいいんでしょうか。この数日で、教義のいくつかは学ぶことができましたが。
「リーリア、ね。よろしく。
ローザ、今日の仕事は早く終わりそう?」
「はい、リーリアさんが手伝ってくれてますので」
「じゃあ、買い物頼める? あとついでに、リーリアに街案内してあげて。急がないから」
最高司祭様のご用は、主に日用品や保存食の類でした。
「ごめんなさい、リーリアさんにも持たせちゃって」
「いえいえ。筋肉は余ってるので気にしないでください」
「余ってるの?」
「はい。姉の方がすごいんですけどね」
「へえ……」
そんな他愛のない言葉を交わしながら金地区の市場を巡ります。噴水を囲むようにして、テントが立ち並んでいます。なぜか空の樽がどんと飾ってある漬け物屋さんで買い物をしたり。
「そういえば、ローザさん」
「ん?」
「最高司祭様のお名前って、なんておっしゃるんですか?
いつまでも“最高司祭様”じゃ、呼びにくいので」
「ん~…………」
あっ、目を逸らされた。
「それは、長くいればそのうち自ずとわかる、かも」
「自ずと?」
「わからない、かも」
「えー」
……最高司祭様の名前を新米に教えてはいけない掟とかあるんでしょうか。奥深すぎです、ヴェクリュージェ神殿。
──その時、盛大に金物が落ちる音、お皿か何かが割れる音が耳に飛び込んできました。
慌ててそちらを見ます。
斜めに傾いだテントの屋根。
火のついたような子供の泣き声。あっという間に人垣ができます。
「なんだ、崩れたのか?」
「子供が怪我をしたみたいだ」
風に乗ってそんな言葉が私達にも届いてきました。
「! リーリアさん、これお願い!」
ローザさんが荷物を私に託してそちらへ駆けて行きます。私もそれを落としたり、他の人とぶつかったりしないように気をつけながら、後を追いました。
「通してください、怪我人を見せて!」
「神官様だ!」
「宝飾神様の神官様がいらっしゃったぞ!!」
ローザさんの呼びかけに人垣が割れます。
その時一瞬見えたのは……白い石畳に広がる……暗く鮮やかな、赤……。
それからどうやって神殿まで帰ったのかは、よく覚えていません。
ローザさんの話によると、蒼白になりながらもちゃんと荷物を運んできたらしいのですが。……とりあえず預かった卵が割れていなかったのでよしとします。
子供はローザさんの施した治癒の奇跡で回復したそうですが、念のためということで親御さん共々神殿へ連れてこられていました。
「血が、苦手ですか?」
お水をもらって腰掛けていた私に、子供の様子を見終わったヤスミン様が訊きました。
「はい……、昔は、そうじゃなかったんですけど」
ワイングラスに毎日一口分の血が運ばれていくのを見ていても。……あまつさえ、それを自分で運ぶことになっても。
「そうですね、あなたは他の人よりもいろいろ経験していますから。
小さい頃はそれがどういうことか解らなかったでしょうけど、大きくなった今、それが何だったかわかって、呑み込むのに、少し時間が必要なんでしょうね」
似たようなことを父の懇意の賢者さんにも言われました。
ヤスミン様は繰り返します。
「時間か……、きっかけか。
時に、リーリアさんは神殿の仕事についてどう思いますか?」
「神殿のお仕事……ですか?」
「ええ」
尊い仕事だと思います。父の店にやってくる、冒険者でもあり神官でもある人たちのことを見ていた頃からそう思っていましたが。
そして、少しお手伝いさせてもらって、実は信者さん達に見せていない裏方の仕事も多いと知りました。
そう言うとヤスミン様は真顔でうなずかれて、
「そうですか。私はね、あなたのことを神殿勤めに向いていると思っているんですよ、リーリアさん」
「……えっと、ありがとうございます」
とりあえず褒められている気がしたのでお礼を言っておきました。確かに神殿の皆さんのお役に立てることは嬉しく、楽しかったですし。けれど、ヤスミン様は何をおっしゃりたいのでしょうか。
「しかし、神殿は今日のように怪我をしている人への治療を強く求められている場でもあります。冒険者の宿にいらっしゃったなら、ご存じであると思いますが」
「そう……ですね」
そこで、気付きました。
私は当然のように、冒険者の皆さんから手ほどきを受け、将来冒険者になる自分を想像していました。この旅がその第一歩だという小さな思惑で。
でも、実際の戦いは、刃をつぶした剣で殴り合うようにはできていないのです。
戦士でなかったら? 神官でなかったら? ──同じことです。自分の立っている場所から相手が、味方が血を流すところを見なければなりません。
「今まではそういう場面に遭ったら、目を逸らしていればよかったんですけど……」
「それが間違っているとは思いませんよ。多くの方々のように、平穏な暮らしを選んでもいいのです。あなたには、そのような道もあるのですよ」
その言葉で、気付きました。
ここまではるばる一人旅をしてきた私の幼い思惑を、ヤスミン様は、見抜いておられたのだなと。
それから更に数日、私はほとんどの時間を書庫と台所で過ごしていました。
「どう、首尾は?」
お聞きになったのは私の剥いたりんごをかじっている、最高司祭様です。ご公務の間なのか、ふらりといらっしゃった最高司祭様と、イモの皮を剥いている私の他に、台所にはたまたま誰もおりませんでした。
首尾というのは書庫通いのことでしょう。私は先日ヤスミン様に言われたことを反芻しつつ、まずは当初の目的に近づこうと考えました。つまり例の聖印の元の持ち主、おそらくこちらの神様の信者だった方についておぼろげに像を結ぼうと、書庫で初歩的な教義の本を紐解いていたのです。
「こちらの神様がどういった方で、どのようにして神格を得られたかについてはよく解ったのですが。それを信仰していた方々となると……様々すぎて」
「そうか……あ、りんごもう一個ちょうだい。いいよ、自分で剥くから」
最高司祭様は私の使っていたのとは別のナイフを取り出し、器用にくるくると剥き始めました。先に等分にして剥くのではなく。さりげなく上級技です。
「宝飾師か、レーゼルドーンまで足を伸ばしていた商人さんですかねえ……?
最高司祭様、お上手ですね」
「ん、まあ、にんげ……じゃなかった。ここに落ち着くまでは何でも自分でやってたからね。
でもヤスミンとかもっとすごいよ。すごく細長く剥けるんだよね」
「え……っ、あの方が?」
「あの顔で」
「……イケメンですのに」
「ふ……フツメンだろうあれは」
「……最高司祭様でもそーゆー言葉遣い、されるんですね」
「まあ、信者達の機微を理解しないとやっていけないし、この職業」
「確かに。
じゃ、雰囲気イケメンで」
「それならなんとか」
何の話をしているんでしょう我々は。
「リーリアは、何? ああいうのが好みなの?」
「え、……いえ? 私、あんまり外見にこだわらない質なので」
「……そうなんだ?」
「はい。私、えっと姉がいるんですけど、見た目うり二つなんですよね。
でも性格も特技も全然違うんですよ。だから人って見た目じゃないなーって」
「なるほど。じゃあ、中身がいけてる人がタイプ?」
最高司祭様はむき終わったりんごをかじっています。
「ええと……そもそも、恋愛とか別にいいやって」
「ふうむ。どうして?」
説明するの、難しいなあ。
「そんなヒマがあったら、自分磨きでもやろうかなって。
あと、さっき言った、……姉なんですけどね。結婚が決まったんです。
相手の人、うり二つの私達が入れ替わっても見破る人で」
「あー……、逆かな。中身を見てくれる人がいいんだ?」
「そうですね。中身というか、本質というか。
でも、そんな酔狂な人、一人しかいないと思うんで。私のところには現れないですよねって」
別に姉と婚約者に嫉妬している訳でもありません。うまく言えないんですけど、ただ、そうなんだなって思ってしまったというだけの話です。
「そうかな、わからないじゃない?」
最高司祭様のおっしゃることも尤もです。なんだか、口にすればするだけ空しくなってくるのも解ってはいるのですが。
「だって、奇跡はあんまり起こらないから奇跡なんですよ」
そして憎らしいことに、婚約者は大事な姉を預けるに足る人物なんですよね。
「リーリアは、基本大胆なのに妙なところで臆病なのね」
「……たまに言われます」
どういう意味かはよくわからないんですけど。
「うん。でも、さ、うん。自分磨きに、本質……か。
そうだな、同じ奇跡はなかなか起きなくても。
──奇跡の種類が一つとは限らないよね?」
そのしばらく後、手が空いた私が書庫への通路を渡っていると、雰囲気イケメン、もといヤスミン様にばったりと出くわしました。
「ああ、探していたんですよ。今、時間は大丈夫ですか?」
「はい、何かお手伝いできることですか?」
ヤスミン様は左手の人差し指をこちらに見せました。
「先ほど、祭器の尖ったところに擦ってしまいましてね」
「…………ヤスミン様、私が血がダメってご存じですよね」
「ええ。……でも、形だけでもいいので、この傷が治るように祈ってみてくれませんか?」
どうしてそんな持って回ったことを? ご自分でいくらでも癒せるでしょうに。……それとも高司祭の治癒は出し惜しみするようなものなんでしょうか。
まあ、とりあえず私は手を合わせてみました。
「えと……その……ヤスミン様の傷が、早く治りますように。
ヴェクリュージェ様」
……それから起こったことは、なんだか面映ゆいですし、もうお分かりのことだと思うので、端折りますが。
私の目をずっと覆っていた何かが、するりと剥げていくような感覚がありました。
そして、その後から今に至るまでずっと、私は血を怖がらなくなったのです。
「先ほど神託がありまして。それで探していたのですよ、あなたを」
これが私がいただいた奇跡のすべてです。
「……でも、まだ教義もお子様向けの本で読んだだけの私に、どうして?」
「ちょっと頑固なところもあるけど、気が合いそうだ、とのお言葉でしたよ」
それで、私にもやっと最高司祭様のお名前が解ったのでした。
10月 17, 2013 木曜日 at 11:50 pm