飽きる
さても。
さてもさても。
長き年月(としつき)であったと、振り返ってみて思う。
すなわち、RPGというものとつきあい始めてからの年月の事である。
元々、私はゲームというものが好きな子供であった。
いわゆる消える魔球などとゆー、あやしげな仕掛けのついた野球盤ゲームを小学生の時に祖父に買ってもらってからというもの、私はいろいろなゲームを遊んできた。
自分でもすごろくめいたゲームを作ってみて、嫌がる妹をむりやり付き合わせて遊んでみたりもした。
私が中学生になる頃、ゲームの世界にも電子化の流れがやってきて、インベーダー・ゲームに大人も子供も夢中になったりもした。
高校生になった時、アバロン・ヒルやSPIという会社が出しているアメリカのウォー・ゲームが輸入されているのを知った。
一番最初にルールを読んだのは『電撃戦』というレッド国とブルー国が戦う仮想戦ゲームだった。
一番最初にプレイしたのは『宇宙の戦士』という同名のSF小説を題材にしたSFゲームだった。
一番最初に買ったのは『南極未来戦』というアメリカとソ連が南極大陸の支配権を巡って戦うというかなりいかがわしい近未来ゲームだった。
それらの輸入代理店であるHJ社がTACTICSという雑誌を創刊すると喜んで買ってむさぼるように読んだ。
そのころやはり購読していたSFマガジンに連載されていた安田均さんの海外SFゲーム事情という記事を通して、RPGという存在を認知してはいたが、それはあくまでウォーゲーム、ボードゲームの一ジャンルとしてであった。
当然であるが、ゲームをするには相手がいる。
当時の広島にはニイタニという模型やおもちゃの店があって、ここはウォーゲームを取り扱う広島市内で唯一の場所であった。そして、この店を中心にゲーマーが集まり、サークル活動をしていた。そこではRPGも細々とではあるがマルチゲームの一つとしてプレイされていた。
やがて『D&D』が、『トラベラー』が、そして幾つものRPGが翻訳されブームとなった。国産のRPGも登場し、多くのゲーマーがウォーゲームからRPGへと流れた。
この流れに危機を感じたサークルの中には、RPG禁止令を出すところもあった。
後にマジック・ザ・ギャザリングが隆盛を誇った時にデュエル禁止令が出たサークルもあり、私はこの事を思い出して愉快な気分になったものである。
こうした禁止令にも代表されるように、日本のゲーマーというのは一種様式美を重んじるところがあるように思える。喫茶店やファーストフードの店 などで、ゲーマー達は熱く、ゲームとは何か、日本におけるゲームはこれでいいのか、ゲームの未来はいかにあるべきか、語り合ったのである。何人もの名の知 れた論客がおり、中には同人誌を出している人もいた。
で、私はというと。
まあ実のところ、適当にのほほんと過ごしていたのである。
そしてのほほんと過ごしている間に、いつの間にやら長の歳月が過ぎ去っていた。栄枯盛衰は世の習い。栄えたゲームもあれば消えたゲームもある。 一時期はすっぱり消え去っていたウォーゲームは、いつの間にやらゲーム付き雑誌の『コマンドマガジン』や『ゲームジャーナル』が刊行されるようになった し、RPGマガジンはマジック・ザ・ギャザリングの雑誌へと移り変わった後に再びD&D3Eの記事を掲載するようになった。『コマンドマガジン』 の国際通信社は『ロールプレイング・ゲーマー』というTRPG専門誌をも出すようになった。
そして私はというと今なお新作RPGを遊び、再び勢いを増してきたボードゲームやカードゲームを遊び、8才の甥とワールドタンクバトルズ(戦車 の模型を使ったウォーゲーム)を遊んで負けたり、ぬるいぬるいと文句を言いながらPS2でスーパーロボット大戦を嬉々として遊んでいたりするのである。
さても。
さてもさても。
ウォーゲームから勘定すると20年以上におよぶ私のゲーム人生は、見る人によってはたいしたものに見えるのかも知れない。実際、多くの友人知己がこの長い年月の間にゲームから離れていった。彼らと私を分かつ物は何だったのだろうか?
おそらくは、
無理をしない事、だったのではないかと思う。
ゲームとは趣味である。
そしてはっきり言って、ウォーゲームやRPGなどという新興のゲームは、将棋や麻雀といったゲームと比べてまだまだ練りが甘い。気にくわない所 やくだらない部分、つまらない箇所など山のようにある。あって当たり前である。サークルなどの人間関係も、十年以上も長続きする方が希である。どこかで軋 みが出たりするものである。
そういうのがどうにも鼻につくようになったら、気にする事はない。他の趣味にうつつをぬかせばよろしい。スポーツでも良い。恋人といちゃつくのも良い。読書や音楽という昔ながらの趣味も良かろう。
ここでヘンにゲームに固執しようとか、新しい事にチャレンジしようとか、より良いゲームのために啓蒙活動をしようとか、そういうアグレッシブなのは──
止めはしないが私としては避けた方が無難であろうと思われる。
そしてそのうちに、またゲームをやりたくなる時がやって来る。
やって来ないかも知れないが、その時はその時である。
たとえどういう結果になったとしても、
ゲームは決してあなたを見捨てたりはしない。
あなたが帰って来るのを、
再び冒険の世界に乗り出すのを、
辛抱強く、じっと待っていてくれるのである。
これが、そろそろ薹(とう)のたってきた老兵からのアドヴァイスである。
今は昔の物語である。